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完全無欠のピアニスト「マウリツィオ・ポリーニ」 音楽に捧げた生涯
2024年3月23日(現地時間)、イタリアのミラノ出身の世界的なピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが、亡くなった。82歳だった。ポリーニは、他の追従を許さない完璧な技巧と豊かな表現力で、「完全無欠のピアニスト」とたたえられたピアニストである。彼の非の打ちどころがない、時に繊細、時に力強い演奏を聴いていると、最高の贅沢時間を得た気分になる。
ポリーニは、ショパンなどのロマン派や古典音楽の演奏で賞を獲得し、輝かしいキャリアを築いてきたが、現代音楽にも真摯に向き合い、若手演奏家に影響を与え続けてきた。また、彼は、1971年以降16回日本での演奏を行っており、日本を第二の故郷と語るほどの親日派であった。2010年には、第22回「高松宮殿下記念世界文化賞」の音楽部門で受賞した。「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞者は、絵画、彫刻、建築、音楽、演劇・映像の5部門で毎年一人ずつしか選ばれない。そう、彼は、世界の音楽家の中でトップオブザトップなのだ。
ポリーニの演奏によるストラヴィンスキー『「ペトルーシュカ」からの三章』と、ショパン 「4つのスケルツォ」は高評価だ。
A Tribute:Maurizio Pollini 94曲 2時間30分
誕生と才能の開花
ポリーニは1942年1月5日、イタリアのミラノで生まれた。父親は有名な建築家のジノ・ポリーニ、母親レナータ・メロッティは声楽もこなすピアニストである。彼は、幼い頃から音楽に溢れた家庭で育ち、4歳からピアノを始めた。8歳でミラノ市立ヴェルディ音楽院に入学し、カルロ・ロンバルディ、カルロ・ガッティ、アデリーノ・ヴェッキオなどに師事した。
輝かしいキャリア
ポリーニは、15歳野時、ジュネーブ国際コンクールで第2位に輝き、1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最年少優勝者記録を樹立した。この勝利がポリーニを一躍国際的な名声へと押し上げ、世界中の注目を集めることとなる。その後、彼は世界各地で演奏活動を展開した。ベートーヴェン、ショパン、シューマン、ブラームスなど、幅広いレパートリーを持ち、その完璧なテクニックと深い音楽性で聴衆を魅了。カラヤンやバーンスタインなど、著名な指揮者との共演も数多く行った。
現代音楽に与えた影響
ポリーニの演奏は、現代音楽の複雑な構造や音響を明解に表現し、聴衆に新たな音楽体験を提供した。彼は、ストラヴィンスキー、ブーレーズ、リゲティ、ベルク、シュトックハウゼンなどの現代音楽作品を積極的に演奏し、その普及に大きく貢献した。ポリーニの活躍によって、現代音楽は難解で退屈なものというイメージから、演奏家と聴衆が共に楽しめる音楽へと認識が変わっていった。
- 1964年、ストラヴィンスキーのピアノ協奏曲と三つの小品を初演
- 1972年、ブーレーズのピアノソナタ第2番を初演
- 1985年、リゲティのピアノ曲集「Musica ricercata」を録音
- 2001年、ベルクのピアノソナタを録音
演奏家と作曲家との交流
ポリーニは、多くの作曲家と親交があり、彼らと積極的に議論を交わしながら作品を解釈した。ポリーニは、演奏家としての視点から、作曲家に提案を行い、作品をより良い方向へ導き、多くの若手演奏家に影響を与えた。彼の演奏を聴き、現代音楽に興味を持った若手演奏家は少なくない。
日本文化への関心
ポリーニは、能楽、歌舞伎、茶道、書道などの伝統芸能を鑑賞し、日本の美意識に深く感銘を受けた。また、日本文学にも関心を持ち、川端康成や三島由紀夫などの作品を読んだ。彼は、日本は「第二の故郷」であると語っていた。
日本の作曲家との交流
ポリーニは、武満徹、三善晃、細川俊夫などの日本の作曲家と親交があり、日本の現代音楽にも関心が深かった。武満徹のピアノ曲「雨の樹素描」は、ポリーニのために作曲された作品である。
晩年と死去
ポリーニは、2000年代に入ってからも精力的に活動を続けた。2017年には75歳を記念して世界ツアーを開催。しかし、2023年頃から体調を崩し、演奏活動を休止し、2024年3月23日(現地時間)、82歳で亡くなった。
参照:
マウリツィオ・ポリーニ - 高松宮殿下記念世界文化賞 (praemiumimperiale.org)
マウリツィオ・ポリーニと日本
マウリツィオ・ポリーニ - Wikipedia
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