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ウクライナにおける飢餓(ホロドモール)、自分の体を食べられるだけではなく自分でも食べる幼いペトロスちゃんを想像すると泣けてきた。
学生時代、数式や理論さえわかっていれば解答が導き出せる数学は好きだったが、覚える科目はどうにも苦手。日本史や世界史などは、何年になにがあったかを覚えないと、試験で点をとれないので、苦手意識があった。しかし、今や、テレビやネットで世界中のニュースが瞬時に得られる時代となったこともあり、世界で起こっている出来事の背景にある歴史への関心が日増しに募ってくる。私は、なにごとにつけても、「なぜ」を考えるくせがある。
ということで、今、まさに戦争が続いているロシア、ウクライナの歴史に関して、2023年8月28日に放送された、NHKの「映像の世紀バタフライエフェクト、プーチンとゼレンスキー ロシアとウクライナの100年」の映像番組をもとに、歴史の骨子を整理して伝えていきたい。今回はその1回目、さあ、歴史の扉をLet’s open!
ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝ニコライ2世の時代、ウクライナは、小ロシアと呼ばれ、ロシア帝国の一部であった。ウクライナはロシアとは異なる言語、文化を持ちながら、国を持つことは許されなかった。
その後、1910年第一次世界大戦が勃発しロシアも参戦、1200万人の兵士が動員された。その3年後、ロシアではパンを求める女性たちの運動が革命に発展し、300年続いたロマノフ王朝が崩壊。それを機に、ウクライナの人々は独立の声をあげる。ウクライナのキーウでは協議会を設立、ウクライナ人民共和国を建国し、ロシアからの分離独立を宣言した。
しかし、ロマノフ王朝崩壊の後、権力を掌握したレーニンはウクライナのロシアからの分離を認めず、ウクライナは軍事力の前に敗北する。1922年、レーニンはソビエト連邦を樹立し、ロシアに権力を握られたウクライナ・ソビエト社会主義共和国が誕生する。
2022年2月1日(ソ連ウクライナ戦争の3日前)、プーチン大統領は、レーニンが構成国であるウクライナを国家とみとめたことが間違いのはじまりだったと述べている。
1932年、レーニンの死後、スターリンが権力を掌握する。そのスターリンによりウクライナはまたもや悲劇に見舞われる。スターリンは、ソ連の穀物庫であるウクライナのすべての農民に、集団農場への参加を強制した。そして、集団化に反対した農民を、富農と呼び、富農の撲滅を始めた。ロシアの食料調達部隊は、富農から食物を取り上げ、富農の食料、財産を根こそぎ奪った。その状況に加えて、天候不順が襲い掛かり、収穫量は激減。ウクライナでは、飢餓により、数百万人以上の犠牲が発生し、ウクライナ共産党はモスクワに食糧支援を求めたものの、スターリンはとりあわなかった。
ウクライナ語で「飢餓による苦死」を意味するホロドモールと呼ばれるこの悲惨な出来事がウクライナの人々を次々襲う。
飢餓時代のエピソードがある。お腹がすいた子供たちが、ペトロスという一番幼い子をみんなで食べていた。みんながペトロスの皮膚をはがして食べていたのだ。ところが、ペトロスも同じことをしていた。自分の皮膚をひっかいて食べて、できるだけたくさん食べようとしていた。大人は、ペトロスをみんなから引き離し、声をあげて泣いた。
生き地獄的な話であるが、それはほんの一例、飢餓時代において、人肉を食べて生き延びた人は2500人以上。町には、犬も猫も鼠も、生きたものは一匹も見当たらず食いつくされ、自分の家族であっても食べている人もいたのである。
ホロドモールについて、ソ連時代には、ウクライナで語ることを禁じられてきたが、ゼレニンスキー大統領は、ホロドモールを後世に語り継ごうと行動している。
写真は、キエフのホロドモールの慰霊碑。キャンドル型の建物は、ホロドモールの悲劇を風化させないため、2008年に公開したウクライナホロドモール犠牲者記念館。 ホロドモール記念博物館前の公園中央には、痩せ細った少女の像「幼少期の苦い記憶」(トウモロコシの耳を持つ少女)という題名のモニュメントがおかれている。そのモニュメントは、小麦収穫後は、落ち穂拾いでも犯罪になった子供時代の苦い記憶を表現している。
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